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建物の歴史
History

広島市平和記念公園レストハウスの歴史

レストハウスは、さまざまな顔を持っています。当初は、モダンな3階建ての「大正屋呉服店」。戦時中は「燃料会館」となり、原子爆弾によって破壊されました。 被爆から75年。平和記念公園にある被爆建物として、建設当初の装いに近い形で2020年7月にリニューアルしました。 薄いだいだい色のレトロな建物が見つめた、街や人々の営みを紹介します。

1929年(昭和4年)大正屋呉服店

1929年3月 竣工当時の写真(清水建設株式会社所蔵)

広島を代表する呉服店として1929(昭和4)年、鉄筋3階地下1階の店舗が中島本町に建設されました。 設計者は、大阪を中心に活躍した建築家、増田清さん(エッセイスト、小説家、タレントの阿川佐和子さんの祖父)です。

1943年(昭和18年)燃料会館

1945年11月、燃料会館(中央)一帯のカラー写真、手前は県産業奨励館(原爆ドーム)
(H・J・ピーターソンさん寄贈、広島平和記念資料館提供)

1943(昭和18)年12月、戦時中の繊維統制令によって呉服店は廃業。建物は、44年6月県燃料配給統制組合に買収され「燃料会館」となりました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分。爆心地の上空600mで炸裂した原子爆弾により、コンクリート屋根は大破、内部は炎上し、地下室にいた1人を除いて建物内の全員がその後死亡しました。
1957年(昭和32年)復興拠点からレストハウスへ

レストハウス(リニューアル前)

「燃料会館」は戦後も継続しましたが1957(昭和32)年、広島市が買収。市東部復興事務所として新たな役割を得ました。 その後も改修を重ね、1982(昭和57)年からレストハウス(観光案内と無料休憩所)として、多くの修学旅行生や観光客を迎えています。

地下室の生存者

あの日。広島県燃料配給統制組合の職員は午前8時過ぎに、仕事を始めました。 出勤者37人のうち、ただ1人、書類を地下室に取りに行った人が野村英三(のむら・えいぞう)さんです。建物は、爆心地から約170mの至近距離でした。
野村さんが1950年に書いた被爆体験記は、国立原爆死没者追悼平和祈念館のウェブサイトで読むことができます。被爆直後、衝撃で地下室に閉じ込められた野村さん。 脱出後に産業奨励館や商工会議所に火の手が上がる様子を見て川べりに逃れ、激しい雨に打たれて寒さに震えた経験を 「八月の盛夏、大火事の中心にいて寒さのために火に近寄るということは何という事だろう」と記しています。一緒に逃げた同僚は全員、亡くなりました。
レストハウスの地下1階は、見学できます。柱や壁の痕跡から「あの日」を想像してみてください。

故・野村英三さん

中島本町

現在は緑豊かな公園ですが、広島の中央に位置するこの地区には、原爆により壊滅するまで中島本町などいくつもの町がありました。 化粧品店、理髪店、製菓業、旅館、写真館…。店が並び、活気にあふれた人々の暮らしが想像できます。

中国新聞デジタル 
ヒロシマ平和メディアセンター
「ヒロシマの空白 街並み再現」

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